お出かけ日記ANNEX

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3/20(金) 濃厚!大人の広島平和学習の旅 1日目~その2~

 広島に来て、超ローカルなお好み焼きさんに連れ込まれたうえに、再び比治山下の電停から、中心部に向かわない電車に乗ります。もしかすると、ちゃんと広島らしい旅になるのだろうかと、彼は一抹の不安を抱えていたかもしれません。
「この先の皆実町六丁目で乗り換えるからね」
 それがどこかもわからない彼は、ちいたろう軍団の一員として、ハードな旅へと連れて行かれるのでした。



 皆実町六丁目から一つめの電停で降ります。今日の平和学習のスタートはここ、御幸橋。しかし、恐らく彼は、どうしてここがスタートなのかわからないでしょう。
 1945年8月6日午前11時頃、地元紙の中国新聞記者、松重 美人氏がこの橋のたもとで撮影した写真が、被爆直後の広島を写した一枚として知られています。そのことを原爆被災説明板の前で説明し、爆心地から約2.3kmのこの地点から、0mの爆心地まで歩くのです。説明板にある記録と被爆の痕跡から、想像もつかないあの日を感じてほしい、それが今日のテーマです。
 御幸橋の写真には、救護を待つ人々の後ろに建物が写っていますが、千田町を過ぎて中心部に向かうにつれ、建物が写らなくなっていきます。
「あれ? まさか、撤去された?」
 広島赤十字病院はずいぶんときれいな建物になっていました。交差点の角にあったモニュメントがなくなっていてびっくりしたのですが、少し奥まったところに広場が整備され、そちらに移されていたようです。


 ここは、爆心から約1.5km。それでも、爆風で曲がった窓枠や、ガラス片が刺さった壁面が残されています。実際、文章や話で理解したつもりでいても、実物を前にすると、改めて原爆の威力の大きさを感じていたようです。
 広島市役所は、爆心地から約1km。ほぼ半分まで来たことになりますが、きっと彼の中では、まだ1kmあるのかと思っていることでしょう。半径2kmという、広島の原爆で焼失した範囲がどれほどのものなのか。実際に歩くことで、その距離感だけでなく、そこにいたであろう人々のことを考えずにはいられません。
 市役所の旧庁舎資料展示室は、こんな時期ですが開館していたので、見学することにしました。一つひとつの展示物を丹念に見ている彼が何を思っているのか。それをいちいち聞くことはしませんが、彼なりに考えていることがあるはず。そうやって考えるということが、一番大切なのだと思います。
 広島の市立幼稚園に勤めていたとき、被爆体験を語りに来てくださった方が、体験を語った後、職員である私たちに、
「(自分が話すことを通して)子どもたちに戦争について考えてほしい」
とおっしゃったのを思い出しました。出来事だけを知るのでなく、そこから何を考えるか。今回の旅でも、それを大事にしたいと考えています。
 ここから先は、被爆の痕跡を語るものが限られてきます。説明板の写真も、焼け野原の風景ばかり。建っていたはずの家がどうなったか、そこで暮らしていた人がどうなったか、あったはずの生活はどうなったか。失われたものはあまりにも多すぎます。
 平和大通りではもちろん、建物疎開の話もしなければなりません。広々とした通りは、当時、多くの中学生が動員されていた場所。それが、今もこうして、大きな通りとなって残っています。
 袋町国民学校(460m)、日本銀行広島支店(350m)、本通商店街(250m)と近づいていき、ようやく0mの爆心地、島病院に到達。説明板は、ついに何もない原子野の写真になりました。
「こんなに大きな被害だったんですね」
 人類の歴史の中で初めて実戦に投入された核兵器は、これだけの広さを焼き払い、そこにいた多くの人たちを傷つけました。その被害はあまりに大きく、今なお、その苦しみも悲しみも続いています。しかし、それから75年の間に核兵器の研究が行われなかったわけがありません。広島に落とされたものよりももっと強力なものを作る事も、もっと小型で効率的に攻撃するものも作れるはず。いや、きっと私が考えるようなことは、科学者や技術者はとっくに考えて、実現に向けて動いていることでしょう。もしもそれを使ってしまったら、取り返しがつかなくなることは間違いありません。
原爆ドームはあそこだよ」
 そう言って指差すと、その近さに彼は驚いていました。駅から電車でやって来て原爆ドームを見るのと、約2.3kmの間の被害の大きさを見てから見るのとでは、印象はかなり違うはずです。


 数字は、私たちに大きさや小ささをわかりやすく表す一方で、わかりにくくしていることもあります。一度に何万人もの人々が亡くなったという数字は、他の災害と比較したり、規模の大きさを表したりすることはできますが、その一人ひとりが誰かにとってかけがえのない人だということは見えません。身近な人が一人亡くなっても、その悲しみは大きなもの。それに何万という数をかけて計算することはできませんし、仮にそう考えたとしても、この街の人々が味わってきた苦しみや悲しみを表すことはできません。数字や計算だけで判断するのでなく、そこから想像することが大事なのではないかと思います。
 歩くということで、あの日のことをちゃんと考えている彼。この3日間で、さらにいろいろなことを吸収してほしい、そう思ったのでした。