お出かけ日記ANNEX

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5/3(月・祝) 松山・広島・うさぎ島 瀬戸内まんきつ海の旅3日目~その3~

 広島にいた時、一年間だけ江波の職場に勤めたことがありました。広島の三角州の南端に位置する江波の私が住んでいた頃のイメージは、まさに奥地。用事がなければ、なかなか行くことはありません。今では広島南道路が通るようになり、当時とは町の風景も変わっていますが、久しぶりに江波を歩いてみることにします。

 広電江波線の終点で降りて、住宅が建ち並ぶ路地を抜けると、本川に出ました。土手の上を、お母さんに手を引かれた幼稚園くらいの女の子が、頭にシロツメクサの冠を載せて歩いていきます。どこにでもあるような春の風景ですが、そういえば最近、シロツメクサの飾りを見ることがありませんでした。シロツメクサ自体はどこにでもあるので、見なかったのはコロナ禍で子どもたちが外で遊ぶ機会が減っているせいでしょうか。それとも、単に私が小さい子と接する機会が少なくなったせいでしょうか。

 南道路の大きな橋が、かつての町を分断して延びていきます。新しい道の周りは立ち退きなどもあったのか、新しい家が多く並んでいました。しかし、ひと足そこから奥へと踏み込んでいけば、昔ながらの建物もまだ残っていて、以前の江波の雰囲気が懐かしいです。

 原爆ドームや旧日銀広島支店のように大きなものではありませんが、丸子山不動院、海神宮と、木造の被爆建物も残っています。爆心地からは3kmほど離れているとはいえ、江波山の上の気象館の建物は窓ガラスが割れて壁に突き刺さり、鉄の窓枠の変形も見られるほどの被害があったこの辺り。今日の広島からは想像もできませんが、たった一発の爆弾はとてつもなく大きな被害を、多くの大切なものを奪ったのです。

 江波山の麓にある海宝寺に着くと、大正中期頃にできたという立派な山門も被爆建物だそうです。山門の脇には、戦没者慰霊碑が建てられています。広島を歩くということは、被爆の歴史を辿るということ。原爆の傷痕を避けて歩くことはできません。

 細く入り組んだ路地を少し進んだところにある衣羽神社は、鳥居から山の上へとまっすぐに石段が続いていました。江波は、古くは島であったはずです。この神社も、島の山のてっぺんに神さまをお祀りしたのでしょう。

 拝殿まで真っ直ぐに続く石段は、下から見上げるとなかなかの迫力です。

「これは、神社を管理する人はさぞかし大変だろうなぁ」

 そう思って上まで登ると、そこには駐車場が広がっていました。なるほど、今では江波山をぐるりとまわる道路が続いていて、そのままここまで来ることができるのです。時代とともに、土地の姿も変わっていきます。

 神社の少し上にある広島市江波山気象館へ上がってみます。1935年(昭和10年)に広島測候所がこの地に新築移転し、1987年(昭和62年)まで広島地方気象台として使われた建物で、1945年(昭和20年)8月6日の原爆にも耐えた被爆建物です。

 私たちはあの日、広島で何が起きたかを、歴史上の出来事として知っていますが、あの日を体験してした人々にとってはまさに青天の霹靂。突然の爆風に襲われ、巨大なキノコ雲が立ち上るのを眺め、やがて黒い雨に打たれました。人々はただなすすべものもなく、起きたことを受け止めなければならなかったはずです。

 このコロナ禍も、被害の大きさと深刻さは比べものになりませんが、共通する部分があるように思います。私たちはまさに、突然のコロナ禍に襲われ、翻弄されています。未来の人からすれば、いつ、どこで、何が起こり、どうなったかを知って、どうすれば良かったかがわかっているはずです。でも、その時代を生きている私たちは、この状況はどうなるのかがわからない中を、見通しが持てないまま苦しみながら生きています。

 屋上へ上がると、広島市街から遠く瀬戸内海まで一望できます。歩いているときに見かける原爆の傷痕も、こうして見ればわかりません。しかしそれは、人々の努力の上に築かれてきたものです。そして、見えない部分にはまだ、人々の苦しみや悲しみが今もなお、続いているのです。

 気象館から山を降り、江波の町を歩きます。瀬戸内に浮かぶ島と同じように、家々の間を狭い道が通っていきます。この先に気象館があるという看板を見ても、「本当にあるのだろうか」と心配になりそうです。

 江波小学校のところからトンネルを抜けて江波の電停まで戻ると、次にやってくる電車は横川駅行き。でも、ここから横川駅までの間に行きたいところが見つかりません。それなら、ちょっと足を延ばして大好きなホルモンの天ぷらを食べに行こうと思い、スマートフォンで調べてみると、よく行くお店はお休み。しかし、電停近くにあるお店が17時に開くらしいです。

「あと1時間ちょっとあるなあ……」

 ならば、その1時間でお風呂に入るというのはどうでしょう。昨日は基町の平和湯に行きましたが、ホルモンの天ぷらが食べられるあたりに行くのに乗り換える土橋の電停の近くには、まだ銭湯があったはずです。

 土橋温泉へ行ってみると、昔ながらの銭湯の佇まいのまま、ちゃんと営業していました。番台のお姉さんに入浴料の450円をちょうど払うと、

「サウナはよろしいですか?」

と聞かれました。みんなサウナ目当てにやって来るのでしょうか。今の時代、風呂はほとんどの家にあるはずです。でも、サウナがある家は多くないでしょう。銭湯に来れば、風呂にもサウナにも入れる。なるほど、サウナはひとつのセールスポイントになるのかもしれません。でも、私はサウナには入らないのでお風呂だけ。浴室の中央に湯船があるのは、東京の銭湯ではなかなか見られないつくりです。

 ひと風呂浴びてスッキリしてから、電車に乗って福島町へ向かいます。スマートフォンで調べたホルモンやさん、あきちゃんに着いたのは16:50頃。店先のベンチに腰掛けて、ギラギラと輝く西日を浴びながら17時の開店を待つのでした。